あの時、フジファブリックを聞く頻度は極端に少なくなっていたと思う。僕が良く聞いていたのは、TEENAGER まで。
ありがちな話で、最初の頃に入った人なので、バンドの変化に付いて行けないのだ。
僕が良く聞いたのは「アラカルト」「フジファブリック」。
CHRONICLE を聞くことは無かった。少なくとも、生前はただの一度も。ウチの弟が買ってるか、誰かのを聞くチャンスがあったら、聞けばいいや。それくらいに思っていた。
ウチの弟は、その時東京にいた。東京で仕事をしていた。
フジファブリックをウチで最初に聞いていたのはウチの弟だった。僕以上に思い入れは深かったのだろう。
中野サンプラザで志村會が開かれる事を聞いた時
「俺が何で東京なんかで仕事をしているのか分かった」
と言った。
僕は志村會にはいけなかった。当時、とんでもなく忙しい仕事を抱えていた僕は、たった一日の有給すら許されず、ただ仕事に打ち込んでいた。
後からウチの弟に、志村會がどんな様子だったかを聞くことは出来たけど、志村會までの間も、その後も、CD をかければ志村はそこにいたし、フジファブリックの新作を聞いてすらいなかったのだから、新しい曲が志村の声で聞けない事も、それほど深く考えてはいなかった。
僕の中で、フジファブリックに関しての時間は止まっていたのだ。
そしてその年の7月。
僕は富士急ハイランドにいた。志村が生前に企画した、FUJI FUJI FUJIQ。
フジファブリックのメンバーの演奏でゲストヴォーカルが歌うというスタイルで進むイベントの二曲目、安倍コウセイが「虹」を歌った。
志村がライブで虹を歌うとき、必ず最初に何か叫ぶ。ROCK IN JAPANだと、「ジャパーーーーン!」と叫んだりしてたっけ。
それと全く同じタイミングで、コウセイが何か叫んだ。
この時、止まっていた時間が急激に流れ始めた。
僕が聞いた事の無い CHRONICLE の曲、バウムクーヘン、Anthem。ライブでは一度も聞くことが出来なかった曲、赤黄色の金木犀、笑ってサヨナラ。
それぞれが、志村への想いを乗せて歌う。
動き出した僕の周りの時間に、僕は感情を押さえ込む事が出来なくなっていった。
そして、今年の ROCK IN JAPAN FESTIVAL。フジファブリックはいつもと同じ様に LAKE STAGE に立った。メンバーの立ち位置もいつもと同じ。
向かって左、金沢ダイスケ。
向かって右、山内総一郎。
少し奥、加藤慎一。
そして中央はぽっかり空いたまま。
新曲も、古い曲も、全てのヴォーカルを山内総一郎がつとめたライブ。
CD で志村の声はいつでも聞ける。でも、志村が歌う事はもうない。明らかにある決意が現れたライブだった。
僕ももう時の流れに逆らう事は無く、身を任せていた。
志村が亡くなって二年。
志村が居ないフジファブリックもいいものだ。でも、志村がいたらどうなっていたんだろう、志村がいればどうなっていたんだろう。
フジファブリックのPVを見ながら、そんな事を考えた。