さよならブラックバード

水戸市南町にあるイタリアンのお店。

trattoria blackbirdが間も無く閉店する。

 

初めてblackbirdに行ったのは2011/07/08。

僕が「何かやらなきゃ」と思ってDJを始めようとしていた時だった。

どうやってお店を見つけたのかはもう覚えていなくて…多分フリーペーパーかなんかで見たんじゃないかと思う。webだったかも。twitterだったかも。

とにかく、それくらいふわっとした感じで自然に立ち寄ったお店がblackbirdだった。

 

Swarm(昔はFoursquare)に記録があるだけで75回。チェックインしていないのもかなりあると思うので、おそらく100回前後はお邪魔しているはず。

仮に75回だとしても、平均で月に一度はご飯を食べに行っていた計算になる。

多分、自分で選択したお店でここまで通ったのは先にはblackbirdだけだと思う。

 

なんでだろう。なんでそこまで通ったのだろうか。

わかりやすく理由を探すのに、blackbirdの好きなところを挙げようと考えた。

 

だけど、それがとても難しい。

 

落ち着いた雰囲気も好きだし、流れている音楽も好きだ。

働いている人たちの人柄も素晴らしいと思う。

そして一番大事なことだけど、食事が美味しい。

細かいことを言えば、リーズナブルなお値段、料理の待ち時間のちょうど良さ、メニューの種類のちょうど良さとか・・・挙げたいところはたくさんある。

(ちなみに、待ち時間というのは短ければ短いほどいいというものではない。もちろん長いのが良いわけでもない。メニューも同じ。どれもこれも、お店にあった時間、メニューの量がある)

 

とにかくお店の要素全てが僕にとっては心地よかったのだ。

噓っぽくしか聞こえないから言っていいものか迷うのだけれど、こう言うしかない。

他の言葉が思いつかないのだから。

 

僕はblackbirdの全てが好きだった。

 

僕が行くのは週末のランチが多い。頼むものは決まっている。Cセットパスタ。

今はウイークエンドランチと名前を変えてしまったけど、前菜とグリーンサラダのプレート、パスタにドリンクのセットだ。

ドリンクはいつもエスプレッソにする。

フジオさんやタグチさんがいた頃はシェケラートにしてもらうこともあったけど、ホシノさんに変わってからはエスプレッソ一択。少し砂糖を入れてゆっくり混ぜる。そして香り、苦味、甘味を楽しむ。

エスプレッソを飲み終わると、お会計をして、ごちそうさまでしたと声をかけて出てくる。

 

決して話をしないわけではないけど、沼田さんと話すことも多くなかったと思う。

たまに一言二言「これ、オリジナルの曲じゃないですよね?」とか、その程度。

もちろん仲良くしたくないわけじゃない。

でもあの場においてはお店のシェフとお客。

フレンドリーなお店が嫌いなわけじゃない。だけど、blackbirdでのその距離感がとても心地よかった。

そしてそれは誰にでもそうしていたわけじゃ無く、僕にとってはそれがいいと思ってそうしてくれていたのかな、と思っている。

 

僕が水戸で「何か」を始めようと思い、それが音楽的な活動になり、VJになった。
そしてそれを僕が続けてきている間、水戸にはblackbirdというお店があった。

誰にも相談できないことがあった時に行くと、いつものように沼田さんが料理を作っている。

歴代バリスタ、フジオさん、タグチさん、ホシノさんがドリンクを作ってくれる。

とりたてて相談をするわけではない。

ただ料理を食べ、エスプレッソを飲み干し、原点に立ち戻る。

その度に、もう一度、まだできる。と、そう思えた。

 

僕の活動の中に、blackbirdはあった。

 

2011年から今日まで、間違い無く僕の一部だったお店。

きっと今頃、最後のイベントがとても盛り上がっているんだろう。

本音を言えばすごく行きたい。でも、明日は仕事だ。お別れを言いたい人も多いのに、僕なんかが行ったら多分迷惑だろう。

 

それに、僕にとってのblackbirdは昨日のランチが最後と決めていた。

普通に食べに行って、いつものメニューを注文し、エスプレッソを飲んで出てくる。

そして帰る時に、いつもより一言だけ多く、これだけは言おうと決めた言葉を告げ帰ってきた。

 

「ごちそうさま。ありがとうございました。」

 

と。

 

沼田さん、長い間お世話になりました。

どうぞ、山形の地でも美味しい料理を。

 

そして、口約束にならないように、本気の約束をしておきます。

いつか、山形にもご飯を食べに行きます。

今までのように通ったりはできないでしょうが、必ず。

愛とユーモア

 先日リリースされたスーパーアイラブユーの新曲「愛とユーモア」のMVを編集させてもらいました。

 ディレクションはスーパーアイラブユー、撮影と編集が僕。

 前回の「ハッピーエンドでよろしく」と同じ編成でやりました。

 そしてその動画は…本日公開になりました!やったね!

 


スーパーアイラブユー 愛とユーモア

 

…本当は先週完成させるはずだったのですが、もろもろ僕の都合で遅れていました。

 先週のレコ発で「明日か明後日には…」と片貝さん言っていたのにリリースできていなかったのはひとえに僕のせいです。ごめんなさい、スパラビュファンの皆さん。

 


 僕はもう映像からは引退してしまった人間なので(VJは続けてますが)、撮影も編集も他の人がやった方がちゃんとしたMVになります。たぶん。

 それでもこれは僕がやりたかったし、初めてこの曲を聴いたとき片貝さんに「愛とユーモアいいっすね!これはMV作りましょうよ!」と勢いでいったのはたぶん僕にしかできないこともあるだろうなと思ったからです。

 

 愛だけはたくさん込めました。

 気持ち悪いくらいの愛を。

 

 合成素材を作るときなんかは「しーこさんは女性だからもっと丸みを帯びたラインで作ってあげないと!」とか「駿さんは…駿さんだから、駿さんぽくあれだ…あれしてあれしよう」とか。

 映像を通してメンバー+リオッチーa.k.a.りおさん(そしてLIGHTS OUT菊池さん)とたくさんの対話をし、出来上がったのが今回のMVです。

 が!…今回も「あんまり細かいところまでは見ないでね」と言いたい気はします(笑

 

 でも、見てください。というかぜひ見てみてください。マストで見てください。見ないと呪います。細かいところまで見て突っ込んでくれた方が嬉しいかもしれません。

 何しろ、曲が最高にいいので。

 そして一回見て頂いた後は、リオッチーandしーこさんの顔見たさに何度も何度も繰り返し見てもらえたら幸いです。

 あとでこそっと撮影時のNG集やおまけショットなんかも、スーパーアイラブユーが許してくれたら作ってみたいと思っています。

 

 さて、今回編集ついでに「僕が動画製作の時にどういうことをしてるのか」っていうのをちょっとした映像にしました。1分半くらいのもんなのでこっちもちょっと見てもらえたら。

 MV見て、そのあとで僕の映像制作風景を見てもらって、さらにもう一回MVを見ると「あー、こうなってんだこの部分」という楽しみがあると思います。

 ちなみに僕の動画製作の模様、1分半で終わってますが、実際にはこれ8時間以上やってます。それでもまだ甘いところがあるので、そこはお目こぼしいただく方向だと嬉しいです。

 


AfterEffects使うのが下手な人

 

 あ!もう一個!

 今回のCDの表ジャケ、僕が撮影した写真が採用されてます!

 最初、僕が撮った写真だと思わなかったんですよね。とてもいい写真だったので菊池さんが撮ったのかと。

 そしたら表ジャケは僕が撮った写真だったらしく…

 これはもう歴史に名前が残ったぞ、と一人小躍りして昨日の夜は常陸野ネストを二本も飲んでしまった次第です。

 

 こちらはスーパーアイラブユーのライブ会場で見ることができますので、ぜひとも手に取ってみてみてください!

 

 しかし…いい仕事をしたかもしれない、僕。

 それではまた!

2017.04.28 シブヤチック @ LIGHTS OUT RECORDS LOUNGE

フォーマット。

定型。

 

blogを書くとき、後から見直しやすいようにタイトルはいつも定型にしているのだけど、今回に限ってそれをすっかり忘れてしまい、過去のblogを紐解くことになった。

 

 

で、思ったのは、高校生とか予備校の時にblogがあったらどうなっていただろう、ということ。

 

 

渋谷系というものが大流行したいたのは実は僕のほんの少し上なのだけど、僕が高校三年から予備校時代にかけ、昨日も遊びに来てくれていた日本酒大好きな友人、そして今は京都でいろいろデザインという会社を起業している友人などと一緒に渋谷系を聴き漁っていた時期がある。

ど真ん中であるFLIPPER'S GUITAR、PIZZICATO FIVEはもちろん、そこから派生して米国音楽(書籍)だったり、とにかくいろいろなところに食指を広げ、ミニコミ雑誌を作ったり、今だったら多分倫理的にも法的にもアウトなことをしてみたり。

今なら音楽はiTunesでさっと視聴できる。でも僕らの時は違う。

CDショップに行き、視聴機に入っているものが全て。信頼できる人の言葉を元に、信頼できるショッパーの耳を元に、自分の足で音を広げていくしかない。

水戸で言えば、丸井Virgin。ROCKBOTTOM。

そこが僕らの聖地だった。

 

でも、そんな当時の空気はもう他人の言葉の中にしかない。

自分の言葉でblogか何かに残しておくことができる今の世代は、時間が過ぎた時今の空気をどう思うのだろう。

 

で、四時間経過。

 

片付け始めて昔のジャンプを読み始めちゃう現象が起こったところで、昨日のシブヤチックのお話を。

 

まず、とてもいいイベントだったということ。

あんなに楽しかったのは、ここ数年で一番なんじゃないかと。

ライツアウトは涅槃だ!なんてことを酔っ払ってFacebookに書いていましたが、あながち間違いじゃねえな、と。

 

涅槃(ねはん、サンスクリット語: निर्वाणNirvāṇaパーリ語: निब्बानNibbāna)とは、仏教の主要な概念の一つである。悟りと同じ意味であるとされる。すなわち煩悩のない状態である。

wikipedia

 

マスクド先輩もおっしゃっていた通り、若女将は最高でしたが、そういうことをおっしゃるマスクド先輩も最高でした。

DJとはかくあるべき。別にヒップホップキッズじゃないんですけど、やっぱり水戸の子なので、トマッテタマッカ出た時はこの数年イチの高揚感でした。

 

じゃ、最後に僕のかけた曲紹介をしておしまい。

 

2017.04.08 シブヤチック

  1. ウォーターメロン・ビキニ / THE BRIDGE
  2. Maki's Groovy Sprout / カジヒデキ
  3. 亜熱帯ガール / カジヒデキリディムサウンター
  4. 1969 (CASE OF MONSIEUR KAMAYATSU) / CORNELIUS
  5. 1969 / CORNELIUS
  6. 黄昏 '95 〜太陽の季節 / TOKYO No.1 SOULSET
  7. BADCITY / SHOGUN
  8. ダイヤモンド・ボッサ / CORNELIUS
  9. CANNIBAL ROCK / Jazztronik
  10. すぐに会えるかな? / 小沢健二
  11. American Money / Seatbelts
  12. Chocolate / ROUND TABLE
  13. Pelé / CORNELIUS
  14. Deep French Kiss / ORIGINAL LOVE
  15. Clean up woman / Betty Wright
  16. 川越ランデブー / u-zhaan x rei harakami

でした。

川越ランデブーかけた時、超好きです、って言ってくれた人がいたのはとても嬉しかったなあ。

 

次は5/4、参丁目劇場で「僕と音楽と女の子」というトークイベントです。

ほんと、大したことは話ししません。参丁目劇場で飲み会やりましょう、というコンセプトのやつなので。

今回はゲストにDJ若女将マネのえんどぅーさんをお呼びしております。

参丁目劇場の初代店長をお招きして色々お話聞ければな、と。

 

次の選曲係は5/14(日)、参丁目劇場で「歌謡大全」です。

こちらもよろしくおねがいいたします!ではでは!

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CentOS 7でDHCPサーバーを構築する(基本的なやつ)

会社のネットワークで(個人的に使ってるとこ)DHCP使いたくて、CentOS 7で構築したので、メモを。

もちろん、もっとセキュアに!とか、もっと細やかな設定をしなきゃダメだよ!というお叱りはあると思うけど、とりあえず僕の環境では

 

・接続したマシンに適当なIPv4のアドレスを振ってほしい

 

というだけなのでこの程度でいいかな、と。

 

それに、アドレスが自動で振れてしまえばその先はさらなるカスタマイズをしていけばいいだけだと思うのです。何事もまずは基礎から。

 

さて、手順に入る前に、準備から。

ネットではyumを使う方法はたくさん書いてあるんだけど、会社のプライベート試験環境なのでネットへの接続は許されていない。

そこで今回は、インストールDVDに入っているrpmを使うことにする。

なので、DVDはもしかするとフルイメージのやつをダウンロードしないとダメかも。

 

イメージをダウンロードして、ディスクに焼いてドライブに入れるなど、マシンにマウントしたら手順開始。

 

 DHCP構築手順

  1. CentOS をインストールする。
    GUIなんて軟弱なものはインストールしないので、なんとなく、ネットワークインフラとして使う場合の最小オプションを選択しておく。


  2. インストール中、ネットワーク設定が出てくるが、適切に行う。
    二つ目のネットワークのゲートウェイとして使いたい!とかいろいろあると思うけど、ちゃんとした知識ある人はこんなところ見てないと思うので、ひとまず僕の場合の設定(プライベート)を記す。

    IPv4設定
    IP : 192.168.0.1
    サブネットマスク : 255.255.128.0
    ゲートウェイ : 192.168.0.1 (DHCPゲートウェイは同じにすることにする)


  3. インストールが無事に完了したら、CentOS に管理者ログイン


  4. /media に /dvd とか /cdrom とか、それっぽいディレクトリがなければディレクトリを作成する (以下、コマンド例)

    [hogehoge]# cd /media
    [hogehoge]# mkdir dvd

    この先はとりあえず、ディレクトリを「dvd」という名前で作成したものとして話を進める


  5. インストールに使ったDVDを /media/dvd にマウント
    [hogehoge]# mount /dev/cdrom /media/dvd
     →あたりまえだけど、read-onlyだよ、というメッセージが表示される。


  6. DHCPのインストールパッケージがある場所に移動
    [hogehoge] # cd /media/dvd/Packages


  7. DHCPパッケージをrpmでインストー
    [hogehoge]# rpm -ihv dhcp-4.2.5-42.el7.centos.x86_64.rpm

     →DHCPのバージョンはパッケージによって違うかも。そんときは

      [hogehoge]# ls dhcp*

     とかってやって調べてみて


  8. /etc/dhcp/dhcpd.conf を編集
    僕はプライベートアドレス空間DHCPしたかったので、こんな感じ。
    設定内容としては、192.168.0.0〜192.168.127.255までの間のネットワークセグメントで、192.168.0.200〜192.168.0.250という51台文、DHCPとして使う、という設定。
    行末のセミコロンは忘れがちなので注意。
    subnet 192.168.0.0 netmask 255.255.128.0 {
        range 192.168.0.200 192.168.0.250;
        option routers 192.168.0.1;
        option domain-name-servers 192.168.0.1;
    }

    各行注意点と説明
     1行目 : サブネットと、サブネットマスクを指定。サブネット・ネットマスクが矛盾しないように注意
     2行目 : DHCPで自動割り当てしたいIPアドレスの範囲だが、サブネット範囲と矛盾しないように
     3行目 : routersとありますが、要はデフォルトゲートウェイです。
     4行目 : DNSのアドレスです。 ←当然と言えば当然ですが、DNS使わないなら指定しなくて大丈夫です (2017/5/23 修正)

     ※読んで字のごとく、3行目と4行目はオプションです。


  9. DHCPを起動する
    [hogehoge]# systemctl start dhcpd

    ここで何かしらのエラーメッセージが表示される場合、大体はdhcpd.confの設定がおかしい。行末のセミコロンが抜けてない?サブネットの設定はちゃんとあってる?などなどチェックしてみましょう。
    [hogehoge]# systemctl status dhcpd
    又は
    [hogehoge]# journalctl -xe
    で何が起きているのか確認できるので、確認してみるのも吉。


  10. システム起動時にDHCPが立ち上がるようにする
    [hogehoge]# systemctl enable dhcpd

 

 

以上、終了。

既に有効になってると思うけど、一応再起動しておくのがこういう時のコンピューターに対する最低限の礼儀。

 

 

一部、こちらの記事を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

DHCPサーバー構築(dhcp) - CentOSで自宅サーバー構築

 

 

2017/05/17 追記

DHCPで割り当てられたアドレスを確認するためには、

/var/lib/dhcpd/

にある

dhcpd.leases

を表示すればよい。

 

2017/05/23 追記

DNSについて、そもそもDNSなんて使ってないからいらないということで、削除。

DHCPDが立ち上がらないときの状況確認コマンドを追記。

DECEMBER'S CHILDREN @ 赤坂BLITZ 2016.12.2 (SPARTA LOCALS)

 最後にうちの弟と東京でライブを見たのは2011年。

 中野サンプラザでのRiddim Saunter Farewellライブ。

 その時弟は高円寺に住んでいた。
 だから、弟と二人で東京に「行く」ということになると、もう少し前にさかのぼる。

 

 2009年9月23日。

 

 SPARTA LOCALSのワンマンリサイタル「ラストダンスはあなたに」。

 SPARTA LOCALS解散ライブだった。

 ライブが終わり、自発的に観客全員がスパルタの名曲「トーキョウバレリーナ」を合唱、AXの外に出でから多幸感と喪失感でバラバラになりながら弟が

「ありがとう、スパルタ」

と言ったのを、はっきり覚えている。

 


 そして7年後、2016年12月2日。

 

 7年前は独り身だった弟も結婚し、今は一児の父だ。

 僕は身分こそ変わらないものの職を二三度変え、VJなどの活動を始めた。

 時間とともに変わるものがある。時間がたっても変わらないものもある。

 

 移動中、車内でオザケンが流れ出した。

「昔から好きだけど、最近はオザケンがいいんだよな」

と弟が言う。

 

 その両方の意味を考えているうちに第一目的地の神立へ。

 車から電車に乗り換える。


 7年間、何かあるごとずっと弟と話をしてきたこと。

「もう一度スパルタが見たい」

 それをかなえるべく、東京へ向かうために。

 

 今回のライブは単独ではなくイベントだったが、スパルタローカルズのライブは定刻から若干押して始まった。

 

 スパルタローカルズ、オリジナルメンバーの4人がステージに上がる。

 始まった一曲目は「バイオレンスサマー」。

 

 スパルタの解散ライブ「ラストダンスはあなたに」で最初に演奏した曲。

 2009年は上手の中ほどで見ていた。今回は僕はちょうど反対側にいる。

 時間が2009年と2016年を行き来する。

 

 僕は初めて、スパルタローカルズが帰ってきたことを実感した。

 その一音一音を、2016年のスパルタの音を、体に染み込ませる。

 

 バイオレンスサマーが終わり一呼吸空け、余韻に浸ろうかとした瞬間、あのギターリフが僕の脳神経を切り裂いた。

 

 黄金WAVEだ!

 

黄金WAVE

縁石の上滑り切って「公道に!飛び込んだ!」
俺たちどっか行くつもり「退屈、退屈、退屈だ!」
光るボートが意味を誇示する
白けた街が今んとこ俺たちの「海!」

高層ビルの影抉った「孤高の!スキル!」

思いは例の女の子「嗚呼マリア、マリア、マリア」
あなたと二人
どこか遠くへ行けたらいいねとか軟弱なこと思った「今!」

下らん冗談に後ろめたさなど感じたくはない
そう思った
笑いすぎて疲れ切って眠くなり
少し目を閉じた

黄金の波を待ち焦がれているさ
世界が突然輝くロマンに酔ってる

黄金の波が迫り狂ってるんだ
俺は飛び上がり叫ぶのさ 波だ!「来たぞ!」待ってた!

ねえ、バカのようだろ?
ねえ、嘘みたいだろ?

 

 「」の中が、別にやれというわけではないのだけど、客が全力でレスポンスするところ。

 これぞスパルタ

 スパルタのコールアンドレスポンスは「オイ!オイ!」とか、アーティストが歌ったところを続けて歌うようなのじゃない。

 自分も入り込むのだ。

 黄金WAVE、THE CLUBはその極致。

 半分くらいはお客さんのパートなのだから。

 

 全力の黄金WAVE。

 そういえばここ数年、ライブで全力を出すことはなくなっていた。

 年齢だからというより、周りの人たちのノリを一歩引いて見てしまう自分がいた。

 少なからず音楽とかかわるようになり、周りの目を気にするようになったからかも知れない。

 でも、今日は別だ。こっちは7年、この波を待ってたんだ!

 

 それを察してか、本人たちも爆発したいのか、7年ぶりのスパルタはこんなものじゃ止まらなかった。

 

 次の曲もちょっと歌詞がおかしい、世界観もおかしい。
 そして我々のパートは「バン!ザイ!バン!ザイ! バン!ザイ!U!F!O!」だ。

 UFOバンザイ。

 バンザイ、UFO、というその歌詞で1000人が飛び、叫ぶ。

 宇宙人にUFOで撥ねられた、じゃあ友達になろう、というその世界観に1000人が踊り狂う。

 こんなの世界広しといえどスパルタだけだろう。(HINTOもそんな気はする)


 脳内がジャックされ、ロックされる。

 完全に出来上がった我々にドロップされた次の曲は僕たちとスパルタをつなぐあの曲。


 ロックとハニー。

 7年前のあのとき「終わること、考えているって? ハニー、永遠はロックンロールと君だけさ」と歌われた時少なくとも僕は、永遠なんてないということを深く刻みつけた。

 コウセイはどんな思いだったのだろう。

 だけど、きっと永遠はある。あきらめさえしなければ、忘れさえしなければ、それが永遠なんだ。


 次の曲が終わり、コウセイがギターをおろす。

 それだけで次の曲がなんなのか、客のほとんどがわかってしまった。

 

 その事実が僕をたまらなくうれしくさせる。

 赤坂BLITZにいた人は、誰一人スパルタのことを忘れていなかった。

 多分僕と同じように、折につけ映像を見たり、曲を聴いたりしていたのだろう。

 だからこそ、コウセイが次に何をするのか分かったのだ。

 

 僕ももちろんそれを察し、臨戦態勢。

 あふれた期待が言葉を突いて出てしまった人も数人いた(笑

 

 「ばかやろ・・・」「ばか・・・」


コウセイがしょーがねーな、という感じで一気にギアをトップにあげ、叫ぶ。


「バカヤロウ!!!!」


 ライブはここまでのボルテージを一気に更新し、今日のライブはスパルタローカルズ完全勝利だな、と思ったその時。

 

 誰もがもう一度と思っていたあの曲。

 

 スパルタローカルズというバンドは、決して大きく売れたわけではない(と思う)。

 そんなバンドを愛し続けた僕たちはマイノリティなのかもしれない。

 それがなんだ。

 大事なことは、スパルタは最高のバンドだということ。それで十分だ。

 そして、俺たちはトーキョウのバレリーナだっ!!!!!!

 

 あまりにも短いスパルタの復活劇はアンコールにGRUNGY SISTERをやって終演。

 

 欲を言えば聞きたい曲はもっとあった。

 夢ステーション、THE CLUB、まぼろしFOREVER、APOLLO

 

 でも、それは来年にとっておこう。

 スパルタローカルズは来年も続くのだ。(もちろん、HINTOも)


 2009年、スパルタの解散でライブに情熱を向けられなくなった自分に言ってやりたい。

 

「大丈夫。格好悪いビートは、2016年も続いてる。そして、これからも!」と。

 

 

2016.12.2 DECEMBER'S CHILDREN in スパルタローカルズ @ 赤坂BLITZ

1. バイオレンスサマー
2. 黄金WAVE
3. UFOバンザイ
4. ロックとハニー
5. POGO
6. ばかやろう
7. ピース
8. トーキョウバレリーナ

EC GRUNGY SISTER

2011/03/11

 

 

 数日前に大きい地震があったので、それが異常な揺れだということはすぐわかった。

 同僚には「じゃ、そろそろ僕は避難しますから(笑)」

 などとややふざけて言ったけれど、本当に避難しないとやばいかもと思ったのだ。

 

 体を机の下に入れた瞬間、室内の照明が一斉に消えた。

 

 激しい揺れ。

 

 机の上からPCが落ちてくる。

 アンカーを入れているスチール製の本棚が倒れる。

 

 関東大震災で耐震基準ってものができてビルは倒れないのだろうけどこんな揺れちゃんと想定してるのだろうか?偽装建築だったりしたらまずいなあ。でも、走馬灯走ってないから死なないかな。

 冷え切った机の足を、手が机の足になったのではないかと思うほどに強く握りしめながら、そんなことを考えていた。

 

 時間にして数分のことだったらしいけど、その数分で世界が変わった。

 

 なんの例えでもなく。

  

 地震がおさまったあと、机の下から抜け出すと、先ほどとはと全く違う光景が広がっていた。

 床に散乱する書類。あるべきところから移動している複合機

 社内の人はやや浮き足立っているように見えたが、マニュアルに沿って近くの公園に避難することになった。

 

 しかし、避難はしたもののそこから先には一向に話が進まない。

 上長がいないので、ここから先の対応がわからないらしい。

 

 当然、こんな状況ではその上長への電話もつながらない。

 

 暫く黙っていたけど、十数分たっても事態が動かないので、痺れを切らして僕は

「家が心配だからもう帰る」

 と言って帰ることにした。

 

 その時もものすごく「そうですよね…仕方ないですよね…」と、帰ることに対して「本当はまずいんだよな」というような顔をされたのが今でも思い出される。

 

 

 

 

 携帯がなかなかつながらないのでいつものニュースサイトを見ることもできない。電気もきてなければ家に帰ってパソコンもテレビも使えない。

 時折やってくるパケットでTwitterを見ることしかできない。

 

 とにかく状況が知りたい。

 どこで何が起こったのか。

 

 いろいろ優先度をつけて考えた結果、まずは勤め先の近くにある実家へ向かうことにした。

 僕の家は日立市だが職場はひたちなかで、実家もひたちなか

 この時間なら母親が家にいるはずだ。

 

 自分の車が置いてある駐車場に向かうと、駐車場の壁は崩れ落ちていたが車は無事だった。

 ドアを開け、キーを差し込み、勢いよくキーを回すとエンジンがかかり、カーオーディオに接続したiPodがプレイリストを再開させた。

 

 僕は自宅に向かう前に、カーナビのメニューを開き、オーディオをオフにしようとした。

 

 そこで目に映ったのは「AM」の文字。

 そうか、ラジオなら何かやっているはずだ。

 

 もしもラジオすら聞こえなかったら…という考えも一瞬出てきたが、もちろん他に選択肢があるわけではない。

 僕はカーオーディオをAMにした。

 

 ラジオからは、聞いたことのある声。

 おそらく、地元のローカル局茨城放送

 

 僕は一つ、安心した。

 

 茨城放送はうちの親父の勤め先だ。会社が無事なら親父も無事だろう。

 そして、これでちゃんと情報が手に入る。

 

 ラジオから聞こえたのは、震源は東北であるということ。

 そして、大津波警報が発令されているということ。

 

 揺れ始まってから揺れが強くなるまでの時間、いわゆる「P-S時間」が長かったので震源はこの辺りでないだろう…と思っていたけど、震源は東北だった。

 大津波警報については…このしばらく前に起きたチリ(だっけ?)の地震を考えると今のところは話半分だな…と思っていた。

 

 情報が入り始めたことで、考えることは増えてきたが、まだ状況に対応しきれていない。

 一旦、整理をつけるため、そのまま実家へ向買うことにした。

 

 車を走らせ始めてびっくりしたのは、停電だと信号もつかない、ということ。

 

 信号機にはUPSみたいな電源バックアップがあると勝手に思っていたのだけど、そうではないらしい。理由はあるのだろうけど、車社会ではかなりのウエイトを占めるインフラであるだけに、意外だった。

 

 さて、信号がつかないからか、道が混雑している。

 普段なら5分かからない実家への道だが、15分経っても到着しなかった。

 信号のない裏道を抜けようとしても、ブロック塀が道へ倒れてきていたりして、自動車での走行ができない。結局渋滞している大通りを通るのが一番早いと結論し、ゆっくり実家へ向かう。

 

 30分後、なんとか実家へたどり着いた。

 

 家の被害は、大谷石の塀が一部壊れていたくらいで、幸い、家自体には大きな損傷はないようだ。

 

 ボタンを押してもチャイムが鳴らないため、ドアを開けて声をかける。

 母親は自宅にいた。

 

 母も今仕事から戻ってきたところらしい。

 話によると、弟二人も僕より先に自宅に立ち寄っており、無事らしい。 

 しかし父親は今日は会社ではなく東京に出張であったため、安否がまだ確認できていないとのこと。

 でも、東京ならここより安全だろう。日本の首都だ。

 

 それにここより震源から遠い。

 

 

 

 

 唯一連絡がつかないのは祖母でそれが何より心配なのだが、笠間へ向かう余裕はない。

 祖母には明日連絡してみることにして日立の自宅へ戻ることにする。

 

 

 いつも日立の自宅へ戻るとき同様に国道245号を北上して行くのだが、原研前が大渋滞。

 状況が全くわからないが、茨城東病院から原研前に降りてくるのに30分かかった。

 

 

 

 

 そこから先もずっと渋滞だったので、脇道に逸れることにした。

 しかし、脇道はなぜか水が溢れている。

 

 津波

 

 後でわかったのだけど、それは津波ではなく、液状化現象だったらしい。

 事前にラジオで大津波警報というのを聞いていたのでそう思ったのだけど、田んぼの中に作った道だったので、液状化していたらしい。

 

 とはいえ245号線をこのまま進んだら日が暮れてしまう(事実、茨城東病院のところにいたときはまだ日が高かったのに、原研前まで来た時点で日が暮れかけていた)このままここにいても仕方ないのでその道を突っ切り、東海第二の前まできた。

 

 

 のちにわかったことだけど、この時東海第二もあまりいい状態ではなかったらしい。でも、まったくそんな事は考えていなかった。

 地震が来れば原発は安全に停止する。

 何重もの防壁があって、万が一のことがあっても、更に万が一、更に更に万が一、その上の万が一の万が一の万が一がなければ事故にはならない。

 そう教えられていたから。

 

 

 

 

 最も渋滞していたであろう原研前は何とか通り過ぎたが、東海第二の前も道は混雑していた。

 

 

 

 

 外は更に暗くなりつつあった。

 その間、道路交通法違反を承知でいろんなところに電話をしたが全くつながらない。呼び出しすらならない。恐らく通話規制がかかっているんだろう。

 

 僕はそこでふと思い付き、電話ではなく通話をSkypeOutに切り替えた。

 SkypeOutSkypeから一般の電話にかけることで、料金がかかるが…時折つながることがあった。

 

 どうやら、制限は通話に対して行われており、パケットの制限は通話ほどきつくない模様。義理の母は無事が確認できた。

 お互い気をつけるよう言葉を交わし、skypeを切断。

 

 そうこうしているうち、245号で久慈川を渡るところまできた。

 久慈川を渡り245をまっすぐ行けば自宅なのだが…そこから先は通行止め。警察の人だろうか、警備していた人に聞くと、大津波警報が発令されているため、海沿いは通れないらしい。

 

 やむなく左に曲がり、山への抜け道を通り自宅へ。

 自宅は電気がつかないので真っ暗だ。もちろん誰もいない。

 

 テレビの裏に懐中電灯があったはずだ…と靴を脱いで中に入ろうとしたが、室内は食器などが割れており、全く足の踏み場もない。

 

 そのまま土足で上がり、倒れたテレビの影から懐中電灯を探し出した。

 これでひとまず明かりが確保できた。

 

 部屋の中は想像以上にひどい。

 

 一人でこれを片付けても仕方ないし、何より家の中にいる間も断続的に家が揺れる。さっきの大きい揺れで実はこのアパートはギリギリまできていて、あと一つ押せば崩れるのでは…などと考えてしまう。

 

 でも、この時間違いなく僕は「ああ、これ、片づけないと」と思ったのだ。

 お昼の明るい時間だったなら、僕は確実に家の片付けを始めたと思う。

 でも、時間はすでに七時を回り、外は随分と暗くなってきた。

 

 津波があった地域の人たちも同じような心境だったらしい。

 津波が来るとは思わず、先の生活を考えて今のうちにできることはやってしまおう、というつもりだったのだと思う。

 

 外がだいぶ暗くなってきて、いよいよ自分にできることがなくなってきたからだと思うけど、そういえば飯も何も食っていない。

 何かないかと探してみるが、冷蔵庫の中のものは外に飛び出ていて食べられるものもほとんどない。家はプロパンだからガスは出るが、水道が出ないのでほとんどの非常食を作ることができない。

 

でも、コンビニも定食屋も全くやっていない。

 

  

 それにしても状況が全く分からない。

 とても助かるのだけれど、茨城放送は現時点で茨城県内の情報ばかりだ。

 自分自身が少し落ち着いたからだろうか、より広い情報を手に入れたいと思いお始めた。

 ネットもつながったり途切れたりが続いている。何よりケータイの電池が残り少ない。

 この状況があと何日続くのか解らないけれど、誰かから連絡があるかもしれない。

 ツイッターでの情報収集もほどほどに、その日はとりあえず寝ることにした。

 

 時間はまだ20時。

 しかし、街の灯りが全て失われた外は、昨日までの深夜よりも遥かに暗く、寒かった。

 

 今、こうして布団に包まれていることに感謝しながら、明日を待つ。

悔しさは原動力なのだけど…

 最近文章の構成力と、きちんとまとめる能力が信じられないくらい低下してるので、大ちゃんとブログ書かないと、と。

ツイッターフェイスブックでは足りないけど、ブログで書くほど長くない話って結構埋もれちゃうので。

 

 

本題。

 

 一昨日、MARQUEEの新作ライブ動画見てたら裏の映像(僕ではない)がめちゃくちゃカッコよくて

 

「ああ、これはやられた。これは俺がやりたかった。技術の問題もまああるけど、時間かければ作れるから、発想の問題。思いつかなかった自分が本当悔しい」

 

というを見た。

 

YouTubeの映像クレジットもマーキー映像チームの人だったし、aftereffectsパート作ってるのも僕の知ってる人だった。

直接マーキーと関わりはないと思うけど、映像チームならいかにも頼みそうなところだったので、ここまでリアルだと目が覚めてから、しばらく困惑する。

 

 で、あれ?夢?と思ってMARQUEEの動画をチェックしたのだけど、当然そんな動画はない。

 でもその動画のイメージは僕の頭の中にある。

 

とりあえずイメージが消えてしまう前にノートに書き留めたけど、こういうのって僕が作っていいのかな(笑)

 純粋な才能ではないから、これを作ったところでこれをいつも出せるかと言われるとなかなか難しい気がする。

なんか、不思議な感じ。

 

最近MARQUEEのライブ行けなくて悔しいとか、そんな感じに悔しいことが多かったから、その流れで見たのかな、こんな夢。